21.7.15 1305日目 シドニー⑪ 7月15日の木曜のこと

この日記を7ヶ月ぶり書こうと思ったのは、先週の木曜日、7月15日のことがあったから。
もし、この世界一周旅行が続くなら、この日のことを思い出したくなる時が来ると思ったから。
どうせそのうち忘れるから。




日本を出たのが、2017年の12月19日だから、もう3年7ヶ月が経つ。
オーストラリアに来てから、2年5ヶ月が経つ。

そもそも、なぜ今だにオーストラリアにいるのかと考えると、日本に帰る理由が特に無いから。
この状況じゃなければ、帰って色々な場所で色々な人に会えるかもしれないけど、今帰っても全然長年待ち望んだ状況では無い。

それと日本に帰るよりマシだから。
現状仕事もあるし、収入も良い。
今はロックダウンしているけど、感染の状況も日本よりは良い。

もう少し言えば、俺は日本を出るときに、死んでもかまわないと思って出たから。
危険な国にも行くと思うし、危ない目にも遭うかもしれない。
ただそれでもいいから、どんなことがあってもいいから、行きたいなと思って出たから。

それがまだ死んでもいないし、キツい状況でも無い。
99.99%のバックパッカーが引き上げた中、まだ粘れている。
色々な理由で諦めた人がいる中、そこまでの理由も無い。
全人類が苦しんでて、たくさん人が厳しい状況の中、俺はラッキーな方だと思うし。

あとは単純に諦めていない。
どうしてもやっぱり残りの半周がしてみたい。
まだまだ行ってみたい場所がある。
その全てが終わってから日本に帰りたい。
今帰って見る日本の景色と、全てが終わった後に見る景色はやっぱりどうしても違う気がするから。

ただ、これは日本を出た初日からそうだけど、気持ちが変われば帰る。
来月帰るかもしれないし。
帰りたいし。
美味しいラーメン食べたいし。
さっさと終わらせて帰りたい。


こんなことを毎日考え続けた。
毎日毎日思った。
毎朝起きれば、またここか...と思った。
色々なパターンと選択肢を考えては、現状が良いと思っていた。
来年出られるかも分からない。
その時が来るまで、シドニーかもしれない。

ただ、その時はいつか突然来るんだろうと漠然と思っていた。
急いで荷物をまとめて出発するような時が来るような気はしていた。




俺が今選べるのはずっと3種類。
オーストラリアで現状維持。
ニュージーランドにワーホリで行く。
ただこれだと収入は3分の2になるのと、行ったら1年しかいられない。
あとあまりニュージーランドに興味が無い。
もしくは日本へ帰国。

年齢的に取れなくなるので、一応ニュージーランドビザは誕生日前に取ろうと思っていた。
取るだけなら無料だし。

それともう一つ、同僚だったトシさんと話していて、イギリスワーホリにも申し込みだけでもしておくことにした。

イギリスのワーキングホリディは定員制の抽選。
日本人の枠は年間1500人で、年2回の抽選で1月に800人、7月に700人当たる。
ただ毎回応募者がめちゃくちゃいるので、当たるのは毎回数%の確立だと言われていた。
制限無しのオーストラリアにコロナ前は毎年数万人が来ているのを考えれば、当たる可能性はめちゃくちゃ低い。
今まで知り合った人達からも、何年も毎回申し込んでいるが当たらないという話しは山ほど聞いてきた。
だからイギリスのワーキングホリデイの存在は知ってはいたが、申し込もうと思ったことすらなかった。
ただ今回がラストなのと、名前とパスポート番号を送るだけで無料だから申請だけはしてみた。





7月15日の木曜日。

朝からなんか変な日だった。
木曜日は一週間で1番早く終われる日で、ただ物量は1番多い。
空港の周りを1周するようなルート。

普段は出発したらすぐにラジオを聞くかバラエティを見るかするが、この日は出発するときに、いつか俺も誰かをトレーニングして、この仕事の引き継ぎをする日が来るのだろうかなんて考えごとをしながら運転していた。
俺をトレーニングしてくれたのはジェフとトシさんで、二人からルートとかお店をを教わった。

俺が再出発するころ。
1年後かもっと先か。
そんな頃になれば新たなワーホリの人もオーストラリアに入国が出来るようになる頃かもしれない。
それならば、日本人に教えるのかな?
韓国人か中国人かな。
そしたら最初にその人には、会社内では稼げて楽な方の車に配属されたよ、ラッキーだね、なんてことを話すのかな。
2週間のトレーニング期間でお互いの色々なことを話すのかな。
なんてことを考えていたら1軒目に着いた。


この日はずっと些細な、ホントにちょっとしたイライラすることが続いた。
朝から運転の荒いおっさんに、理不尽な状況で中指を立てられたり。
おばさんが他の車のことを考えずにむちゃくちゃな路上駐車をしていて停められなかったり。
配達先の店員の手際の悪さにイラッとしたり。
お店のオーナーから8時半には開店してるって言われたので行ったら9時半になっても開いてなかったり。
店員の都合で完全に2度手間になったり。


ケンカや大声を出すようなことでも無く。大きなトラブルでも無く。
ホントにちょっとしたイライラすることが続けて起きる日だった。
オーストラリアで生活していれば毎日のように起きる、なんでだよ...って思うようなこと。
ただこの日は起こりすぎてて、なんなの今日...って何回か思った。

この街に住み始めて、この仕事になって余計に感じる。
こんな些細なイライラが毎日本当に多い。
マジで運転が荒い奴が多すぎるし、何にも考えて無い奴が多すぎる。
俺も他人にしているかもしれないけども。

最終的には何回も今まで行ったことのある、数十箱を降ろす大きなお店があるショッピングモールで、普段使っているエレベーターを使おうとしたら、裏の他のエレベーター使えって言われて遠回りをさせられる。


そのお店の配達が終わって、何なんだ今日って思いながら搬入口に戻る。
携帯を見たら英語のメールが来ていた。
学校からか、政府系からか、銀行からか、パッと見で分からない。
英語の文章を読んでも、何系の内容のメールか分からない。

全文コピーしてGoogle翻訳に通す。
日本語で読んでも何のことだか今ひとつ分からない。

まったく頭の中に無かったのと、忘れかけていて、理解が出来なかった。
よく読んで、もしやと思って、もう一度確認する。
イギリスのワーキングホリデイに当選したということと、この先の手続きに関するメールだった。

当たるとはまったく思っていなかったから、頭の中に申し込んだことが入って無かった。
意識してなかった。
そういえば今朝起きたときに、当落の通知が来るなら今日か明日だなって一瞬思った。
本当にビックリした。


落ち着いて読み返すために煙草を持って外に出た。
もう1度読んで、本当に当選したことを確認して、そのまましゃがみ込んだ。
しゃがみ込んだまま、やっと出れるんだ、この国から出られるんだ、出れるんだと、何度も何度も呟いた。

イギリスに行けるとか、ロンドンに住めるとかじゃなくて、この国から出ることが出来る、次の展開が待っていることが、めちゃくちゃ嬉しかった。
ファーム時代に毎日空を見ながら思ったこと、レストラン時代に家からお店まで歩きながら毎日思ったこと、トラックを運転しながら毎日思ったこと。
いつになったらこの国を出られるんだろう。
それはいつで、どこへなんだろう。

その答えがこれだった。
突然の展開だった。
そして、まさかの、まったく思ってもいなかった展開だった。
数%しか当たらないと言われるイギリスのワーホリビザに一発で当たった。
さすがに想像していなかった。



トラックに戻って、次の配達先に向かう。
ラジオも聞かず、無音で考えごとを続けながら運転した。

色々なことを考えた。
でもそれ以上に、出られるという感情が頭の中のほとんどだった。
当たるなんてまったく考えてなかったから、当たった場合の先の事をまったく考えてこなかったから。


変な話し、ビックリしたのが、そこから会社に戻るまで、空と街が本当に綺麗に見えた。
毎日見慣れた、見飽きた光景がピカピカでキラキラだった。
こんな感覚も本当に久しぶりだった。
もの凄いテンションが高かった。

帰り道は普段は使わない、ハーバーブリッチを渡ってオペラハウスを眺めて帰った。
もうこの景色も、この街にも終わりが見えた。
やっと、やっと、終わりが見えた。


会社に戻って、家に帰る前に近所の教会に寄った。
神社無いし。
それぐらい誰かに色々感謝がしたかった。
初めて来た、アルメニア聖教の教会。


家に帰って、夜は色々な人に報告した。
とにかく誰かに話したかった。






翌日からは具体的に色々なことを考え始めた。

ずっと思っていたこと。
その時は突然来るんだろう。
突然荷物をまとめるときが来るんだろう。
思っていた通りになった。

そもそも今の会社に転職しなければ、トシさんとは知り合わなかった。
トシさんに知り合わなければ応募もしなかった。
トシさんが粘って、シドニーからロンドンへ行った前例を作ってくれたから、俺も挑戦が出来る。
この生活の終わりも近い。
一気に忙しくなった。


ビザについても色々調べて、ルールを知る。
まだ当選しただけであって、ビザを申請する権利を得ただけ。
まずは申請しなければならない。

出国と入国は早くても4ヶ月先から半年後ぐらいになりそうなこと。
そこまでの経緯と流れを調べる。

イギリスは他の国と違い2年間のビザが下りる。
半年後に入国したとして、イギリスにいられるのは2年半後まで。
2年半の時間があれば、その後残りの世界一周も出来そうな気がする。
なにより2年間のイギリス滞在中に、前回行けなかったヨーロッパの他の国の観光に行ける。
旅行を再開するとしたらもう1度ヨーロッパに戻る気でいたから都合は良い。

SNSで検索してみたら、今回も落選している人は多くいるようだった。
7年連続で応募したのにとか、5年応募して今年が最後なのに落ちたとかも見かけた。
この状況で応募者数が前よりは多くはないにしても、俺はラッキーだったっぽい。

イギリスでまともな仕事に就けたとしても、おそらく収入は3分の2以下になる。
それぐらい今の仕事環境は良い。
それなのに物価や家賃はシドニーより高い。
しかも仕事は日本食レストランぐらいしかない。
貯金に回せるお金はほとんど無くなる。
今は生活に必要なものはほとんどある。
それをまた1から買わなければならない。
金銭面、生活面を考えれば現状維持が1番良い。

ただ、何度考えても行きたいと思った。
落選している人がいるなか当選したし。
もうこの国から出たいし。
というか、もともとバックパッカーなんだから行くしかないし。


土曜の朝、ロンドンにいるトシさんと電話して色々なことを教わる。
ビザのこと、ロンドンのこと。

ひとまず、とにかく考えても仕方が無い。
まずはビザを無事に手に入れること。
そして無事に出国し入国すること。
半年後の状況も分からない。
再びロンドンがロックダウンすれば行けないかもしれない。

そして今の1番の問題は、誕生日までに申請する必要があること。
俺の誕生日は1ヶ月後。
それまでに提出しなければならない。
ただ今シドニーはロックダウンしている。
申請センターが開いているか分からない。
急ぐ必要があった。

土曜日の半日を使ってビザの申請書類を作る。
申請場所、申請の手順を調べる。
申請センターの予約が出来た。
予約は出来たが開いているのだろうか...。


日曜日に散歩した公園。



一週間後の木曜日。
市内中心部にあるイギリスビザセンターに行く。
会社にお願いして配達前にトラックで寄らせてもらう。



無事に開いていた。
写真撮影、指紋採取等、無事に申請が出来た。
ただオーストラリアのビザを持って行くのを忘れて、急いで近くのコンビニで印刷した。


審査されビザがおりるのは3週間後。
まぁビザ運だけはここまで完璧だったから大丈夫だろう。
問題は、半年後の状況。
イギリスもオーストラリアも落ち着いてるのを期待するしか無い。
とにかく、酷くなってロンドンがロックダウンしたら行けなくなる。
状況を見つつ、出発時期を早めなきゃかもしれない。


それと残りのオーストラリア生活をどうするか。
少しでも多く貯金がしたい。
ギリギリまで働きつつ、エアーズロックだけは行っておきたい。
その予定も組まないといけない。
手元にある物の処分もしないといけない。
売れる物は売りたい。


ひとまず、いきなりの展開に気持ちが追いつかない1週間だった。
そして、この先半年は一気に忙しくなる。
しっかり準備して、その時に備える。

やっとこの生活に終わりが見えたっぽい。





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20.12.14-21.7.15 1092~1305日目 シドニー⑩ ここまでの7ヶ月間のこと

去年の年末に転職と引っ越しをしてから、あっという間に7ヶ月が経った。
SNSはたまに更新するけど、ここの日記はほぼ忘れていた。
普通にシドニーで毎日生活をしていたから。
もう2年半近くオーストラリアにいるから。

もう日記を書くのも面倒臭いから辞めようとも思っていた。
ただ、たまに夜、昔のを読み返して懐かしかったり思い出したりすることがある。

先週の7月15日からここ最近の1週間が色々ありすぎて、久しぶりにまとめとこうと思った。
もしこの世界一週旅行がこの先も続くのならば、半年後、数年後にこの数日間の事を思い出したくなることもあるような気もするから。
簡単に、ざっくりと。




日本食問屋のトラックドライバーに転職して、会社近くのチャッツウッドに引っ越してきて7ヶ月が経った。
ただただ同じ週のサイクルが続いた。
お金を貯めるのは順調だった。

月曜がニューキャッスル。
火曜がバンクスタウンから南へ、クロヌラまで。
水曜がシルバーウォーターからキャベラマタ、隔週でナレランまで。
木曜がランドウィックからマーリックビル、ポートボタニーまで。
金曜がセントラルコースト。

毎週配達に行くお店はほぼ一緒で、隔週で行くお店もあった。
忙しい週と暇な週が交互に来る感じだった。
毎日違うエリアだから見る景色は毎日違うけど、さすがに飽きた。
道も覚え初めて、グーグルマップを使わなくなった3ヶ月目ぐらいから完全に飽きた。

配達中はラジオを聞いたり、バラエティを見たり。
オードリーと、ナインティナインとクリーピーナッツのオールナイトニッポンは毎週聞いている。

英語環境ではあるけど、慣れてくれば使う英語と会話は基本毎日一緒で。
どこ置けばいい?とサインください。しか英語を使わないような毎日で。

ただ給料も良いし、気楽だし、何の不満も無いし。
細かい出来事はあるけど、それはどこにいてもそうだろうし。
土日休みだし、疲れないし。
多分オーストラリアに来て1番安定している日々だと思う。




ワーキングホリディビザは2月に切れた。
良い仲介業者さんを紹介してもらって、学生ビザに切り替えた。
12月末から準備をした。
出来るだけ授業には出ないで、課題も簡単で、仕事に影響が出ない、いわゆるビザのためだけの学校を希望して、紹介していただいた。
簡単な電話での英会話試験の結果、俺の英語力では最初の1ヶ月は英語コースに行かなければならず、その後はビジネスコースに移れるとのことだった。

このご時世で、授業は対面ではなくZoomで。
英語コースは毎日の授業の出席が必要で、ビジネスコースは週1回の授業と課題提出だった。

入学金、ビザ申請代、授業料はそこそこしたが、これが最善の手段だった。
選択肢はいくつかあった。
コロナのパンデミックビザへの切り替えも出来たが、半年後に延長出来ない可能性があった。延長出来なかったら帰国しか無い。
ニュージーランドのワーキングホリディにも行けたが、ニュージーランドでは収入はめちゃくちゃ落ちる。学費を払った方がマシだった。
2月までにたくさんの書類を提出し、無事にビザがおりた。
コーディネーターさんもビックリするぐらい秒でおりた。
本当に車運は無いけどビザ運だけはここまで良い。






コロナは去年から長い間収まっていた。
多分世界的に見ても対策はとても成功している国だった。
市中感染はほぼ0で、たまに出てもそれ以上は続かなかった。
規制のほぼ全ては解除されていて、完全にコロナ前の生活に戻っていた。
市内は人が多く出て賑わっていたし、みんなマスクもしていなかった。
オーストラリアで生活する分には、コロナを感じることはほぼ無かった。
ワクチン接種も、安全な環境が続いているのもあって、進んで受けようとする人が多くなく、摂取センターが暇だというニュースも見た。

しかしそれが先月の6月の中旬、空港内で乗務員の輸送の仕事をしていた職員の方が感染し、その方の奥さんも感染した。
そこからシドニー南部を中心に、日に日に増えていった。
公共施設でのマスク着用が義務になった。
日に日に規制が更新され、緊張感が増す日々だった。

7月、新規感染者が毎日100人以上出る日が続き、シドニーを中心にロックダウンに入った。
ロックダウンは毎週延長され、規制も毎週厳しくなった。
ロックダウン3週目の今の規制は、
レストランはテイクアウトのみの営業。
必要最低限の買い物のみ、複数人での買い物は禁止、1人で1日1回まで。
必要で無い小売店の営業も禁止。
半径10km以上の外出禁止。
散歩などのアクティビティは2人まで。
同居人以外との車の同乗禁止。
シドニー圏外へ仕事などで行く場合は1週間以内のPCR検査が必要。
指定のホットスポットの住人はもっと厳しい内容だった。

この規制がここまで3週間続いているが減る兆しは無く、毎日横ばい。
市内に人影は無く、ほとんどのお店は閉まっている。
ショッピングモールも静かになった。

俺はシドニー圏外に週2回行くので、毎週月水金、週3回無料のドライブスルーのPCRを受けた。
俺は商店やテイクアウトの寿司屋が配達先のほとんどなので、仕事は毎日ちゃんとあった。
ただ毎日暇にはなり、週5時間ぐらい仕事が減った。
レストランや市内への配達が中心のドライバーは、一気に暇になり、休みになる人もいた。

今回は去年より厳しい内容のロックダウン。
多分この先も数週間続きそうな感じの現状。






最近はそんな感じの毎日だった。
ここからは、この7ヶ月間にあったこと。



俺は基本毎日トラックだけど、たまにハイエースを使う日もあった。
小回りきくし、速いからハイエースのが楽。


去年のクリスマス。
倉庫でクリスマスパーティーがあった。
ドライバー達が帰ってきた夕方から。
山ほどのビールと寿司。
他の人達と話す機会が普段は無いから初めましてばかりだった。


大晦日の恒例の花火大会は、大幅に規模が縮小されて開催された。
でも思った以上には打ち上げられた。
2年連続でニュートラルベイの歩道から見た。
見に来てた人は一昨年より少なかった。


元旦はビーチに行った。
肌寒い日で、鳥に餌あげて帰った。










2月の上旬。
モンゴルで知り合い、ここまで4ヵ国、4回会ってきた拓郎が、帰国のためにシドニーに来た。
メルボルンに久石譲のコンサートを一緒に見に行って以来1年ぶりに会う。

知り合って以来ずっと定期的にコンタクトは取り合ってきた。
拓郎は俺が離れた後、マンダベラに住んでいたし。

その後ブリスベンに住んでいた彼から数ヶ月前に、そろそろ帰国しようと思うと連絡が来た。
拓郎は去年の早い段階からバックパッカーに戻ることは諦めていた。
拓郎も俺と同じく半周しかしていない。
この状況はまだまだ長く続くと判断して、帰国する。

今は日本への便はシドニーからしか飛んでいないので、ブリスベンからのトランジットでシドニーに来た。
夜のフライトまでの数時間だけ会えそうと連絡が来た。

仕事終わりにバスに乗って向かい、空港近くのマスコットで合流した。
近くのバーで1杯呑んだあと、ラーメン屋に入った。


山ほど話した。
マンダベラのこと、オーストラリアでのこと、この先のこと。
思っていること考えていること。

拓郎の考えも、決断も、めちゃくちゃ理解が出来る。
間違ってないというか、正解だと思う。
その選択肢だって、俺だって山ほど考えたから。
拓郎だってそうだろうし。
俺だっていつかはその決断をするかもしれないし。


この日は全て俺が奢った。
お疲れ様でした、だから。
この人は間違いなくまた会うから、その時は俺が奢って貰う。

お店を出て、空港まで歩いて向かった。
拓郎のバックパックを1つ俺が担いで、2人でバックパックを背負って歩いた。
ここまでの3年間、何度も何度も色々な街を2人でバックパックを背負って歩いた。
これが会うのは最後では無いけど、それが、この状況がしんどかった。

今、世界中でバックパックを背負って歩いている人はいない。
シドニーでバックパック背負って歩いている人を長らく見ていない。

空港までの20分、とても懐かしかった。
彼の旅の最後に一緒にいれて良かった。
ただモンゴルのウランバートルで最初に会った時、こんな日が来るとはお互い思っていなかったから。



今、全日空と日本航空は、週3往復づつシドニー便を飛ばしている。
この日の拓郎の乗る全日空便の搭乗客は全部で10人だけらしい。
国際線ターミナルは、人の気配は少なく、お店は全て閉まっていた。


出国ゲートまで送った。
最後、拓郎が泣きながら、「匠、俺悔しいよ」って何度も言いながら離れていった。
あの光景は一生忘れないと思う。
俺も悔しいし悲しいし、その理由が1つでは無いから。
山ほどあるから。

地下鉄に乗って家まで帰る。
それもしんどかった。
拓郎は明日には日本。
俺がなぜ地下鉄で家に帰って、寝て、明日も仕事に行くのか考えると、よく分からなかった。












その数日後。
配達中に信号の無い交差点で曲がろうとしていたら、横にいたトレーラーがいきなりバックしてきて、トラックの左側に刺さった。


完全に相手の確認ミスだった。
降りて言い合いの末、会社に対応の確認で電話をしていたら、その隙に逃げられた。
走り去って行く向こうの車のナンバーを暗記したが、後日調べたら該当車は無いとのことだった。
相手は中東系だった。
穴はテープで塞いだ。


この日事務所に帰ったら、スピード違反の通知が2枚届いていた。
特にスピードを上げて走っていた記憶も無いし、周りの車と同じぐらいのスピードで走っていたつもりだった。

それが、シドニーは最近カメラの数をめちゃくちゃ増やしているらしく、それに引っかかった。
厳しく取り締まっているらしい。


この状況もあって政府に金が無いのが理由なのか、その後数ヶ月でカメラの数が激増した。
今は毎日のように新しい移動式のカメラを見る。
パトカーの数も増えて、路肩でカメラ持っているのも、捕まえているのも毎日見るようになった。
youtubeの広告でも流れる。
去年の同じ時期に比べて10倍だかの検挙数らしい。
勘弁してほしい。






2月中旬。
ジェフに誘われて、旧正月のお参りに行く。
奥さんのアーリアと、ドライバーのトシさんと4人で。
シティでヤムチャを食べて、ウーロンゴン近くの、オーストラリア最大のお寺へ。


旧正月のお祝いは市内各所でもやっていた。
会社では、旧正月が正月の国の出身の人も休みを取っていた。
お寺はたくさんの人だった。


3月上旬。
シドニー北部のハークスベリー川に電車で遊びに行く。



次の週。
ジェフとトシさんと、辞めて以来4ヶ月ぶりに働いていたお店にランチを食べに行く。
サービスたくさんしていただいた。


4月上旬。
イースターの4連休があった。ただ最初の2日間は風邪でダウン。
あとの2日間で急遽宿を取って、シドニーから北に250kmのフォースターという小さな街に遊びに行く。
Booking.comでただただ地図を見ながら、安い海沿いのモーテルを取っただけで、何の目当ても無い。
もう行く場所が無い。



翌日は、ビーチを回りながら、ニューキャッスルに寄る。
配達以外で来たこと無いし。




その翌週はオリンピックパークでやっている、イースターのお祭りへ。



ある金曜の仕事終わり。
韓国人の倉庫スタッフと、ジェフと韓国料理屋で飲み会。
韓国の風習だからと、1番先輩のジャックが奢ってくれた。


友達と同僚がサッカーのNSWリーグのチームに所属しているらしく、その2人が対戦するというので見に行く。
トップリーグの下に、各州でリーグがあるらしい。
そのファイトマネーとサッカー教室で生活をしている日本人がけっこういることを最近教えてもらった。


お客さんもけっこういた。



4月下旬。
マンダベラの同居人だったナナちゃんの彼氏の誕生日会に呼んでもらったので、ジェフと行く。
昼からBBQをする。


4月下旬。
同じくマミコが数日間シドニーに寄るというので、2晩連続で呑む。
2日目は焼き鳥屋に行く。


朝方まで呑み、久しぶりの尋常じゃ無い二日酔いで、朝帰って仕事に行く。


5月下旬。
同僚のトシさんがイギリスへ行くというので送別会。
トシさんは1番仲良くして貰った同僚で、俺のトレーニングもしてくれた。
だから色々なことを話した。
その当時からイギリスのワーホリに当たっていて、イギリスに行きたかったがロンドンがロックダウンをしていて、ずっと行けなかった。
諦めるかもと言いつつも狙い続け、ビザのスタートを延長して、ずっと調べて、やっと行けることになった。
ずっと話しを聞いていたし、状況がコロコロ変わった。
それでも期限ギリギリの粘り勝ちだった。


ギリギリまで書類を作って、調べて、PCR受けて。
それでも入れる確証は無くて、最悪の場合は日本へ引き返しという中で出発した。
無事入国出来たと連絡が来たのは嬉しかった。
この状況の中、粘り勝ちのトシさんのニュースは嬉しい。

最後の2週間で4回呑みに行った。


ある水曜日。
トラックに釘が刺さって修理工場に行く。


ジェフに誘われて、香港人のデモに行く。
人の多さと中国領事館のデカさにビックリした。



6月中旬。
女王様の誕生日で3連休なので、北に170kmのポートスティーブンスに2泊3日で旅行に行く。
ここも何の目当ても無い、何となく決めた場所。





ビーチ行って、BBQして、酒を呑むだけの3日間。





6月下旬。
毎週行く配達先でバックしていたら他の車に追突する。
会社が保険を使ってくれたが、ペナルティーで250ドルを払う。


3週間前の6月下旬。
ロックダウンが始まる。
スーパーは入場規制をかけて、入るのに並ぶ。


働いていたお店もテイクアウトのみの営業になったので、テイクアウトしに行く。


この3週間は休日も何も出来ない。
コーヒーを買って公園を散歩するくらいしか出来ない。



社長から72時間おきに検査を受けろと言われ、週3回配達中にドライブスルーのPCRを受ける。
陰性の場合、3日後ぐらいにメールが来る。



先週、シドニーの1番の中心地、クイーンビクトリアビルディングを通ったら人が一人もいなくて、お店は全て閉まっていた。
こないだまで賑わっていたのに。





なんだかんだ写真ながら書いていたら色々あった7ヶ月間だった。
本当にこの先どうなるか、来週どうなるかも、分からない。
今朝オリンピックの開会式のニュースを見ていたら、中国人のルームメイトにマジでやるんだねと言われる。

そもそも日記を書こうと思ったのは、先週の木曜日の話し。
それは別にして次に書く。




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22.6.22-7.21 1647~1676日目 イギリス ロンドン⑦

6月下旬から最近までのこと。 クイーンのライブを見た後にWeezerのライブがあるか調べて。 Green dayとFall Out Boyと3マンがあることを知り。 ただ一人で行くのもなんだかなぁと思い。 スタジアムで3マンとか一人だと飽きそうだなと思い。 また掲示板で誰か行きま...