21.12.28-31 1471~1474日目 山梨 甲府①

12月28日

2週間の自主隔離生活がやっと終わった。
まずは役所巡りだった。
クレジットカードの申請や免許証の更新には住民票が必要で、市役所に行くことが1番最初にやらなければならないことだった。
しかも役所は年末年始の休暇に入るので、本当にギリギリ滑り込みセーフだった。
カード類の発行は2週間はかかる。
今日明日に全て申請を終わらせないと、出国前にカードが手元に届かない。


市役所の窓口で事情を話す。
オーストラリアから一時帰国していて、来月にはイギリスに行くこと。
4年前と同じように、受付の人に変な顔をされる。
出国までの流れを教えてもらい、住民票と保険証を発行してもらう。



そのまま今度は免許センターに向かう。
俺の日本の免許証は半年前に切れていた。
本来は更新出来ないが、このご時世の状況で特別な一時措置があり、海外帰国者で免許が切れている人は、有効な海外免許を所持していれば更新が出来ると警察庁から数ヶ月前に発表があった。


受付でオーストラリアの免許証と警察庁の記事を出し事情を話すと、市役所よりも変な顔をされた。
お待ちくださいと言われ、係の人達が4人ぐらいで話し合っていた。
おそらく俺がここでは初めてのケースなのかもしれない。

しばらくしておそらく偉い感じの方が来てくれて説明をしてくれた。
俺の場合、先に住民票を取っているので、海外帰国者では無く、山梨県民が海外免許から日本の免許に切り替えるという流れになると言われる。
その場合更新は出来るが講習を受けてもらう必要があると言われる。
意味とか必要とかはまったく理解が出来ないが、ひとまず順番を間違えたらしい。
事前に電話で確認もしていたが、どうにも住民票を持っていたらダメらしい。
本当に久しぶりの日本だなぁと思う。

しかも講習は2時間講習だと言われる。
違反も無いし、海外帰国者は講習も無いと聞いていたのに、30分では無く2時間だと言われる。
何度も色々と聞くがどうしてもダメらしく諦める。
2時間の講習を聞く。


講習が終わると係の人が来て、あなたは他と違うのでこちらに来てくださいと言われる。
ついていった先で説明を受ける。
これが何回聞いても理解が出来ずに笑ってしまった。

切れている日本の免許証では5t車まで運転が出来る。
それをオーストラリアに切り替えた時に、オーストラリアのクラスでは4.5tまで運転ができる免許証になっていた。
それを日本の免許証に切り替える時に、4.5tから5tになるので、新規の免許取得という形式になる。
なので、車に乗るときは初心者マークを付けてください、緑の免許証になりますと言われる。
免許を取って13年。
初心者マークに戻るらしい。
理由もまったく理解が出来なかったが、笑って諦めるしかなかった。
係の人も若干笑っていた。

しかもこの先また海外に出るのならば3年以内に帰国しないと、また同じことになりますと言われる。
おそらくまた帰ってきても初心者マークになるらしい。
もう仕方なし、どうでもいいので笑って免許証を受け取った。








1度家に帰ったあと支度をして1番最初に行きたかった場所へ向かった。
日本を出るまで、11年間ずっと居た場所に行った。

入るまでめちゃくちゃ緊張した。
入ってみんなに会って、泣きそうになって、最初の1時間ぐらい上手く話せないぐらい緊張というか変な気持ちになって。
何もかも全てが変わってなくて。
みんなの見た目も感じも何も変わって無くて。


この日は年末のアコースティックイベントで、1曲歌って。
色々な人に会えて、色々な話しをして。
最後ステージの片付けを手伝った時も変な気持ちになって。
たぶん帰国してから今までで、1番本当に日本に帰ってきたんだという気持ちになって。
俺は本当に4年間居なかったんだなという気持ちになって。
心の底から楽しかった。

終わったあとはみんなでラーメン屋に行って。
残った人で居酒屋に行って。
食べる物もお酒も美味しくて。
話した会話の内容も昔と何も変わってなくて、深夜タクシーで帰った。






翌日はクソ二日酔いで朝起きて、二人が来るのを待った。

二人に初めて会ったのはタイのバンコクで予防接種を受けた病院だった。
医者の英語が分からなすぎて、近くの日本人らしき人に助けを求めたのがタッくんとミホさんだった。
あれから4年経っているのが1番驚く。
ホントにこないだの事のように思う。

その後、ラオスのビエンチャンで近くにいるからと合流して一緒に夕食を食べた。
ミャンマーのニャウンシュエでもう1度会って、そこで日本の出国日が1日違いだったこと、今後の世界一周の予定がほぼ同じなことを話した。
それで俺から、今後の一周の中でお互い色々と提案し合おうみたいな話しをした。
協力し合う協定みたいな話をした。

その後ミャンマーからタイ。
スペイン、ポルトガル。
アイスランド一周と何度も合流して。

お互い同じような理由で同じ頃に俺はオーストラリアに。
二人はニュージーランドに向かった。
この4年間しょっちゅう近況報告の電話をした。

2年前に、お互い全ての国境が閉まるという状況になった。
電話をオーストラリアとニュージーランド間で何度もした。

2年前のあの時、何度も相談しあった。
あの時もお互い考えているようなことは一緒で。
その後俺はオーストラリアで粘ることにして、二人は日本に帰って、車で日本一周することを決めた。

一時帰国することを決めた日にシドニーから二人に報告した。
二人は当時北海道にいて、この先の行き先は決まっていなかったけど、年末年始は地元の関西に戻るつもりでいると言っていた。
もしタイミングが合えば会おうなんて話しをした。

隔離期間中に連絡を取った。
仙台周辺にいた。
年末関西に戻る前に1日山梨に寄れるように計画すると言ってくれた。

二人は2日前の夜の段階で山梨に着いていた。
ただ昨日は俺が時間が取れなくて二人は山梨で時間を潰してくれていた。
石和の信玄餅の詰め放題とほったらかしの湯に行っていたらしい。


この日やっと会うことが出来た。
アイスランドのレイキャビックの空港で別れたのが3年前。
その後何度も電話をしてきた。

昼頃、SNSで何度も見ていた二人の日本一周用の手作りのバンが実家に来た。
爆笑しながら抱き合った。
日本で会うのは初めてで。
3年ぶりとは思えないほど懐かしくも無く。


実家でほうとうをいただいた。
これも久しぶり。


ほうとうを食べながら、3人でずっと話をした。
今までのこと、今の事、これからのこと。
話すことは山ほどあった。
相談もたくさんあった。
俺はこう思っているんだけどどう思う?もたくさんあった。
やっぱり思っていることと考えていることはほとんど一緒だった。

日本を出た日が1日違い。
お互いここまで4年間が過ぎた。
回った国やエリアもほとんど一緒。
残っているエリアもほとんど一緒。

2年前のあの時、ロックダウンしたときのことも。
あの時から今まで悩み続けていることも一緒。
お互い99.9%絶滅したバックパッカーの生き残り。
俺の思っていることを世界で1番理解してくれるのが彼らで。
彼らが考えていることも俺が1番よく理解出来る。

そしてお互い4年経ってもまだ終わらない。
話すことは山ほどあったし、こうやってまた無事に会えて、それが俺の地元なことがとても嬉しかった。






この日は1日予定をあけてくれていたので3人で出かける。
前日のほったらかしが微妙だったというので、みたまの湯に行った。
俺も温泉に行きたかったから。


温泉は死ぬほど気持ちよかった。
最高だった。
景色も良かった。

露天風呂で1時間近くタッくんと話しをした。
それは3人で話した内容とは少し違う、同い年の男の話。
やっぱり思っていることはほとんど一緒で。
俺も誰にも話したことの無いような漠然とした思っていることの話しをした。
この4年間と、この先数年間と、その先の話し。
話したことでだいぶ楽になったり確信が出来たり。

みたまの湯はとても良かったらしく二人とも満足してくれた。
二人は今夜中には静岡に向かい、翌日には関西に戻るという。
実家まで送ってもらった。

電話で話す度に何度も話してきたこと。
今度こそ次会う時は、南米かアフリカかどこかの、まだ名前も知らないような小さな街の、汚いゲストハウスで次は会おうと話して別れた。
二人には今後も何度も会うと思う。
ホントにそれが近いうちにそういう街だったらいいなと思う。



この日の夜は地元最大の友達とラーメン屋で呑んだ。
彼の彼女はZoomではお会いしたが初めてお会い出来た。
昼間とはまったく違い、4年ぶりなのにまったく内容の無い会話をした。






翌日は行きたくて行きたくて長年夢見ていたラーメン屋さんに行った。
家系ラーメンは日本でしか食べられない。
最高でした。



幼なじみに会って。
子供が生れたことは昔から聞いていたが、やっと会うことが出来た。
もうこんなに大きくなっていることに本当に驚いたし、それが4年の長さを改めて知れた。



年末年始は普段は忙しい中学の同級生達に会った。
元気でいることはSNSでなんとなく見れるけど、普段仕事や家ではどんな風なのかは知れない。
どの人に会っても話すことは尽きなかった。

俺がもし地元にいて年に1回年末年始に会うだけならこんな話しをすることは無かったのかも知れない。
話しは尽きないかもしれないけど、馬鹿話しなのかもしれない。
でも久しぶりだったから、話すことは誰と会ってもたくさんあった。
この人達なんて会えて超嬉しかった。





昼飯は毎日ラーメン屋さんに行った。
毎日行っても、3週間で食べたかったお店に全て行くことは出来ない。
他の日本食も食べたかったけど、他はなんとなくなら海外でも食べられる。
ラーメンだけは日本でちゃんと美味しいやつが食べたい。
とにかく毎日ラーメン屋に行った。





諸先輩方にもお会いしに行った。
先輩方は久しぶりと言ってくれて、色々な話しを聞いてくれた。




隔離があけてからの4日間。
毎晩呑みに行った。
しこたま呑んだ。
毎朝死ぬほど二日酔いだった。
海外では高くてたくさんは呑めない焼酎を、山ほど呑んだ。
確実に内臓に負担がかかっているぐらい呑んだ。



大晦日は流石に誰もかまってはくれなかった。
当然。

実家でおせちを食べながら紅白を見た。
それも本当に久しぶりだった。
日本にいても大晦日に実家にいることなんてなかったから。



大晦日は去年、一昨年はシドニーでニューイヤー花火を見た。
3年前はインドのバラナシにいた。
4年前はタイのプーケット。
来年は分からない。

来年の目標は久しぶりに死なない。
久しぶりにしばらくはバタバタした日々になる。
今年は何が起きて、どういう1年になるのかまったく想像が出来ない。



この夜は深夜3時過ぎまで祖母と二人で長い話しをした。
やっぱり俺はこの人の血を多くいただいてる。
というか83歳で深夜3時まで話しの尽きないおばあさまは流石だなと思いました。
一時帰国することにしたほとんどの理由はおばあさま。
本当に帰ってきて良かったなと思った。





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21.12.18-12.28 1461~1471日目 日本 厚木→甲府

これを書いている1月30日現在、ロンドンに着いてそろそろ2週間経つかぐらいの状況。
数日前からそろそろここ最近のことでも日記に書くかなんて数日前から思っていた。
日記を書く前に写真のバックアップを取ろうと数日前から何回かトライしたが、携帯が重いのかなんなのか、バックアップに毎晩失敗していた。

そんななか。
一昨日ロンドン市内に呑みに行って、呑みすぎて、帰りの地下鉄の中で爆睡してしまった。
そしたら、寝ている間にスマホをスラれた....。

なので日本とロンドンに着いてからのここ2ヶ月間の写真が消えてしまった...。
最悪すぎる。
この日記で使う写真はSNSであげたものを使う。
というかこれしか残っていない。

スラれた話しは後々書く。







2021年12月20日

神奈川県厚木市のホテル、隔離施設から出られる日。
7日間の隔離生活は、最初の3日間はやることがあった。
各種クレジットカードの申請。
オーストラリア時代の年金等の税理士さんへの申請。
Amazonやヤフオク、メルカリなどでの買い物。
荷物の整理、やることの整理。
イギリス到着時のことも調べる。

とにかく4年ぶりの日本。
各種更新と、この4年間の整理。
荷物の補充と、買い換え。
2年間のイギリス生活とその先の世界半周を見据えて日本でやりたいことはたくさんあった。
ただそれもホテル生活3日目までだった。

ビジネスホテルの個室から出られない中、4日目くらいからやることは尽きた。
朝起きてお弁当を食べて。
昼前に部屋の中で出来る運動をして。
夕方浴槽を溜めてお風呂に入って。
夜はテレビを見て酒呑んで寝た。

4年ぶりの日本だけど、今は窓から見える厚木駅前の景色しか見られず。
窓から入ってくる日本の冬の寒さが懐かしく。
外を歩く幼稚園児を眺めながら、久しぶりの日本の幼稚園児だなぁなんて思っていた。

最後の3日間はすることの無くて、ディズニープラスを契約して、この4年間見れなかったスターウォーズを見て過ごした。



そんな生活がついに終わる7日目。
朝6時に検査キッドが配られ、7時に提出する。
結果が出るのは昼過ぎ。
ここで陽性なら隔離延長だけど、ひとまず荷造りをして部屋で待つ。

14時前に電話がかかってきて、陰性で退所出来ると伝えられる。
入所者は全員バスで羽田空港に戻ることになる。
16時、この日退所の人達がバスに乗り羽田空港へ送ってもらった。

羽田に着いてバスからおりると係員の方々にエレベーターに誘導してもらう。
別に仕方が無いことなのは十分分かるけど、エレベーターに4人ずつ乗せられる。
全員がここ1週間誰にも会わず隔離された人達。
そしてこの先もう1週間自己隔離する人達。
十分分かってはいるけど、やっぱりこの4人をエレベーターに一瞬でも一緒に入れるのは違和感があった。
感染が怖いとかじゃなくて、じゃあこの1週間は何だったの...? この先の1週間は何なの...?
とどうしても思ってしまう...。
今ここまで帰国者に隔離期間を設けているのは日本だけで。
この形式だけのこれが、どうしてもしっくりこない。


羽田からは乗り合いリムジンタクシーを予約してあった。
この乗り合いリムジンタクシーは公共交通機関にあたらずに使用が出来る。
23区内までのサービスで、迎えに来てくれる母親が首都高は運転したくないと言われたので、羽田から高井戸までお願いしてあった。
乗り合いではあったけど乗客は俺だけだった。
高井戸まで4000円ちょっとだった。



高井戸のすき家の駐車場で降ろしてもらって、迎えに来てくれた母親と合流した。
4年ぶりだったけど、しょっちゅう電話していたからそこまで懐かしくは無かった。

中央道に乗って地元に帰る。
笹子トンネルを抜けて甲府盆地の夜景が見えたときは不思議な気持ちだった。

この4年間何百回も想像してきた。
この世界一周旅行が全て終わって、日本に着いたら空港から甲府まで高速バスで帰るのかな?
その時は昼かな?夜かな?
そのバス移動が何千回もやってきた移動の最後になるな。
甲府盆地が見えたら泣くかな?
その時何を思うかな?
この日記の中でも何回も書いてきたこと。




何百回も想像してきたけど、全く想像していなかった形で甲府盆地を眺めることになった。
まだ世界一周は終わっていない。
来月にはまた再出発する。
しかもこのご時世で公共交通機関は使えないので母親の車。
母親の車を自分で運転しながら見ることになった。
死ぬほど懐かしかったけど、泣くような感情では無かった。

それはやっぱり、終わっていないから。
また来月再出発するから。
イギリスと、その先があるから。

久しぶりだなぁと、帰って来ちゃったなぁがあるから。
やっと終わったがあれば泣くかもしれないけど、本当に帰って来ちゃったなぁみたいな気持ちだった。
でもこの景色の中にみんないるんだなぁと思うと不思議だった。
この盆地に俺はたくさんの知り合いがいる。
今までSNSで見ていただけで、ずっと遠かった。



甲府昭和のインターを降りて、アルプス通りに入ったら、もっと変な気持ちになった。
4年前と何も変わらない景色の中に、俺の知らないことがたくさん混ざっていた。
何だこの新しい店はと、ここは無くなったんだなと、ここまだやってるんだなと。
道幅とか、建物の大きさとか、街灯や看板の光の加減とか、そういうものも含めて本当に懐かしかった。


実家に着いたのは23時近かった。
実家の2匹の猫達は完全に俺を忘れていて警戒して出てこなかった。

25歳頃まで住んだ実家の部屋で、ここからまた残りの7日間の隔離生活をする。
一歩外に出れば長年本当に待ち望んだ地元なのに、この状況は辛すぎる。


母親に最初の食事は何がいいかと聞かれ、馬刺しと粗挽きソーセージがいいと答えた。
日本食はあまり恋しいわけでも無かったけど、馬刺しと粗挽きソーセージは海外では食べられなかったから。
ずっと食べれなかったブリのお刺身も本当に美味しかった。
日本の発泡酒も本当に美味しかった。
この薄いビールは日本でしか飲めない。
濃い生ビールより、俺はグリーンラベルの方が好きだ。


本当に色々なことが懐かしくて久しぶりで。
深夜、6年ぶりぐらいに実家の部屋で寝た。




ここからの7日間もホテル生活と一緒だった。
やっと住所がある場所に帰ってきたので、各種申請と買い物の毎日。
ずっと帰国したら欲しかった物を買ったりする。

クレジットカードを何枚か新たに申請したり更新したり。
免許証や保険証の取得方法を調べたり。
イギリスに着いてからの宿を決めたり。
イギリス到着後の自主検査の方法や検査キッドを買ったり。
航空券を調べたり。


ネットで買ったのは、壊れていて新たに欲しかったiPod。
メルカリでワイヤレスイヤホン付きの物を買う。
もうクタクタになっていた洗面用品を入れとく防水バッグ。
充電式電動カミソリ。
熱湯で作れるマウスピース。
iPadの電池交換の予約。
折りたたみ式の枕。
etc.

あと1番の大きな買い物はドローン。
ずっと欲しかった。
色々調べて、ここは奮発して8万円する良いやつを買った。







その後は実家に長年放置させてもらっていた荷物の整理。
もともとは1年半ぐらいで帰ってくる予定だったから、当時の家電や持ち物はほとんど段ボールに入れて実家に置いてきていた。
しかし4年ぶりの帰国になって、今度帰ってくる時もおそらく数年後になる。
ここで1度全部整理する。
本当に取っておきたい物だけ残して、衣類や家具など片っ端から捨てるか売る準備をした。
荷物は半分以下になった。


作っていただいたある日の夕食。
馬モツ、しらす、煮牡蠣。
全部日本でしか食べられない。


毎日本当に美味しかったし、嬉しかった。




あとはイギリスでの職探しを始める。
最初に住むのはロンドン。
他にもイギリスには大都市はあるけど、まずは首都ロンドン。
3年前に行ったときは物価が高すぎて3日間しかいられなかった。
あの時見られなかった場所、行けなかった場所もたくさんある。
本当に毎日ワクワクしたあの街に住んでみたい。
まずは半年ほど住んでみて、イギリス英語や生活の仕方を身につけたい。
その後はその時の状況にもよるけど、できるだけ田舎にも住んでみたい。
なのでひとまずロンドン。

仕事が決まらないと家が探せない。
ロンドンといっても広い。
毎日の交通費も高い。通勤時間も短い方が良い。

仕事は出来ればシドニーと同じ仕事がしたかった。
海外で仕事をするならドライバーは性に合っていた。
1番の理由は何も知らないロンドンを、仕事で色々と見ることが出来る。
レストランで働いても休みの日しか外に行けない。
ロンドン郊外や色々なお店、生活の仕方が知れる。
それと基本一人だから気が楽なのもある。
ラジオか音楽を聴いていればいい。

イギリスの地元の求人サイトでドライバーの仕事を探す。
ニュースで見ていたようにやはりドライバーは人手不足らしく多くの求人があった。
ただ眺めているうちに地元企業で働くのは不安になってきた。

イギリスのことをほとんど知らない。
イギリス英語がどのぐらい理解出来るのかも分からない。
ロンドンの道も知らないし、交通ルールも知らない。
ならまずは日系の会社、シドニーで働いていたような、日本食品の卸売りの会社を探すことにした。
ロンドンにだって100%ある。


シドニー時代の会社の社長にメールを送り、もしイギリスの同業の会社を知っていたら教えて欲しいですとお願いしたら、1社紹介していただいた。
それと日系の求人サイトに出ていた神戸牛の卸業者。
今は求人は出していないが、かつて求人を出していた2社。
この計4社のHPの問い合わせフォームから直接メールを送ってみた。
来月にロンドンに行くこと、シドニーで経験があること。
日本語と英語でメールを送ってみる。


数日後、その中の2社から返信があった。
1社とは来週オンラインで面接。
1社とはロンドンに到着後すぐに面接となった。
2社の場所は市内でも正反対の場所なので、到着後家を探すことになった。
まぁこれで仕事はなんとかなりそうだった。
着いたらすぐに働きたかったからありがたかった。




ある日の昼食、モスバーガー。
世界のどこで食べたハンバーガーよりもモスバーガーが1番美味しかった。




あとは隔離が終わったあとの自由になれる3週間。
その間に会いたい人達に連絡をする。
東京にいる同級生。
もう家族も家もある同級生。
地元の先輩後輩。
もうみんな生活があるし、なかなか時間も作れないと思う。
あとはこの状況。
多少は落ち着いてきてはいる状況であれ、家族や仕事の関係で外に出れない人も多い。

いくら隔離生活をしたからといっても俺は海外帰国者。
勝手に帰ってきて、久しぶりだから会いたいですと言ったところで迷惑な人もいるのは十分に分かっている。
だからずっとこの状況では帰りたくなかったし。

ただ、連絡してみるとみんな時間を作ってくれた。
年末年始の予定が埋まっていった。
ありがたかった。






ホテルでの隔離生活と同じで、4日目ぐらいまではやることがあったが、後半は退屈だった。
久しぶりにプレイステーションを出して、久しぶりに野球ゲームをやったりして時間を潰した。

そんなことをしていたら、2週間の隔離生活が終わった。





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22.6.22-7.21 1647~1676日目 イギリス ロンドン⑦

6月下旬から最近までのこと。 クイーンのライブを見た後にWeezerのライブがあるか調べて。 Green dayとFall Out Boyと3マンがあることを知り。 ただ一人で行くのもなんだかなぁと思い。 スタジアムで3マンとか一人だと飽きそうだなと思い。 また掲示板で誰か行きま...