12月28日
2週間の自主隔離生活がやっと終わった。
まずは役所巡りだった。
クレジットカードの申請や免許証の更新には住民票が必要で、市役所に行くことが1番最初にやらなければならないことだった。
しかも役所は年末年始の休暇に入るので、本当にギリギリ滑り込みセーフだった。
カード類の発行は2週間はかかる。
今日明日に全て申請を終わらせないと、出国前にカードが手元に届かない。
市役所の窓口で事情を話す。
オーストラリアから一時帰国していて、来月にはイギリスに行くこと。
4年前と同じように、受付の人に変な顔をされる。
出国までの流れを教えてもらい、住民票と保険証を発行してもらう。
そのまま今度は免許センターに向かう。
俺の日本の免許証は半年前に切れていた。
本来は更新出来ないが、このご時世の状況で特別な一時措置があり、海外帰国者で免許が切れている人は、有効な海外免許を所持していれば更新が出来ると警察庁から数ヶ月前に発表があった。
受付でオーストラリアの免許証と警察庁の記事を出し事情を話すと、市役所よりも変な顔をされた。
お待ちくださいと言われ、係の人達が4人ぐらいで話し合っていた。
おそらく俺がここでは初めてのケースなのかもしれない。
しばらくしておそらく偉い感じの方が来てくれて説明をしてくれた。
俺の場合、先に住民票を取っているので、海外帰国者では無く、山梨県民が海外免許から日本の免許に切り替えるという流れになると言われる。
その場合更新は出来るが講習を受けてもらう必要があると言われる。
意味とか必要とかはまったく理解が出来ないが、ひとまず順番を間違えたらしい。
事前に電話で確認もしていたが、どうにも住民票を持っていたらダメらしい。
本当に久しぶりの日本だなぁと思う。
しかも講習は2時間講習だと言われる。
違反も無いし、海外帰国者は講習も無いと聞いていたのに、30分では無く2時間だと言われる。
何度も色々と聞くがどうしてもダメらしく諦める。
2時間の講習を聞く。
講習が終わると係の人が来て、あなたは他と違うのでこちらに来てくださいと言われる。
ついていった先で説明を受ける。
これが何回聞いても理解が出来ずに笑ってしまった。
切れている日本の免許証では5t車まで運転が出来る。
それをオーストラリアに切り替えた時に、オーストラリアのクラスでは4.5tまで運転ができる免許証になっていた。
それを日本の免許証に切り替える時に、4.5tから5tになるので、新規の免許取得という形式になる。
なので、車に乗るときは初心者マークを付けてください、緑の免許証になりますと言われる。
免許を取って13年。
初心者マークに戻るらしい。
理由もまったく理解が出来なかったが、笑って諦めるしかなかった。
係の人も若干笑っていた。
しかもこの先また海外に出るのならば3年以内に帰国しないと、また同じことになりますと言われる。
おそらくまた帰ってきても初心者マークになるらしい。
もう仕方なし、どうでもいいので笑って免許証を受け取った。
1度家に帰ったあと支度をして1番最初に行きたかった場所へ向かった。
日本を出るまで、11年間ずっと居た場所に行った。
入るまでめちゃくちゃ緊張した。
入ってみんなに会って、泣きそうになって、最初の1時間ぐらい上手く話せないぐらい緊張というか変な気持ちになって。
何もかも全てが変わってなくて。
みんなの見た目も感じも何も変わって無くて。
この日は年末のアコースティックイベントで、1曲歌って。
色々な人に会えて、色々な話しをして。
最後ステージの片付けを手伝った時も変な気持ちになって。
たぶん帰国してから今までで、1番本当に日本に帰ってきたんだという気持ちになって。
俺は本当に4年間居なかったんだなという気持ちになって。
心の底から楽しかった。
終わったあとはみんなでラーメン屋に行って。
残った人で居酒屋に行って。
食べる物もお酒も美味しくて。
話した会話の内容も昔と何も変わってなくて、深夜タクシーで帰った。
翌日はクソ二日酔いで朝起きて、二人が来るのを待った。
二人に初めて会ったのはタイのバンコクで予防接種を受けた病院だった。
医者の英語が分からなすぎて、近くの日本人らしき人に助けを求めたのがタッくんとミホさんだった。
あれから4年経っているのが1番驚く。
ホントにこないだの事のように思う。
その後、ラオスのビエンチャンで近くにいるからと合流して一緒に夕食を食べた。
ミャンマーのニャウンシュエでもう1度会って、そこで日本の出国日が1日違いだったこと、今後の世界一周の予定がほぼ同じなことを話した。
それで俺から、今後の一周の中でお互い色々と提案し合おうみたいな話しをした。
協力し合う協定みたいな話をした。
その後ミャンマーからタイ。
スペイン、ポルトガル。
アイスランド一周と何度も合流して。
お互い同じような理由で同じ頃に俺はオーストラリアに。
二人はニュージーランドに向かった。
この4年間しょっちゅう近況報告の電話をした。
2年前に、お互い全ての国境が閉まるという状況になった。
電話をオーストラリアとニュージーランド間で何度もした。
2年前のあの時、何度も相談しあった。
あの時もお互い考えているようなことは一緒で。
その後俺はオーストラリアで粘ることにして、二人は日本に帰って、車で日本一周することを決めた。
一時帰国することを決めた日にシドニーから二人に報告した。
二人は当時北海道にいて、この先の行き先は決まっていなかったけど、年末年始は地元の関西に戻るつもりでいると言っていた。
もしタイミングが合えば会おうなんて話しをした。
隔離期間中に連絡を取った。
仙台周辺にいた。
年末関西に戻る前に1日山梨に寄れるように計画すると言ってくれた。
二人は2日前の夜の段階で山梨に着いていた。
ただ昨日は俺が時間が取れなくて二人は山梨で時間を潰してくれていた。
石和の信玄餅の詰め放題とほったらかしの湯に行っていたらしい。
この日やっと会うことが出来た。
アイスランドのレイキャビックの空港で別れたのが3年前。
その後何度も電話をしてきた。
昼頃、SNSで何度も見ていた二人の日本一周用の手作りのバンが実家に来た。
爆笑しながら抱き合った。
日本で会うのは初めてで。
3年ぶりとは思えないほど懐かしくも無く。
実家でほうとうをいただいた。
これも久しぶり。
ほうとうを食べながら、3人でずっと話をした。
今までのこと、今の事、これからのこと。
話すことは山ほどあった。
相談もたくさんあった。
俺はこう思っているんだけどどう思う?もたくさんあった。
やっぱり思っていることと考えていることはほとんど一緒だった。
日本を出た日が1日違い。
お互いここまで4年間が過ぎた。
回った国やエリアもほとんど一緒。
残っているエリアもほとんど一緒。
2年前のあの時、ロックダウンしたときのことも。
あの時から今まで悩み続けていることも一緒。
お互い99.9%絶滅したバックパッカーの生き残り。
俺の思っていることを世界で1番理解してくれるのが彼らで。
彼らが考えていることも俺が1番よく理解出来る。
そしてお互い4年経ってもまだ終わらない。
話すことは山ほどあったし、こうやってまた無事に会えて、それが俺の地元なことがとても嬉しかった。
この日は1日予定をあけてくれていたので3人で出かける。
前日のほったらかしが微妙だったというので、みたまの湯に行った。
俺も温泉に行きたかったから。
温泉は死ぬほど気持ちよかった。
最高だった。
景色も良かった。
露天風呂で1時間近くタッくんと話しをした。
それは3人で話した内容とは少し違う、同い年の男の話。
やっぱり思っていることはほとんど一緒で。
俺も誰にも話したことの無いような漠然とした思っていることの話しをした。
この4年間と、この先数年間と、その先の話し。
話したことでだいぶ楽になったり確信が出来たり。
みたまの湯はとても良かったらしく二人とも満足してくれた。
二人は今夜中には静岡に向かい、翌日には関西に戻るという。
実家まで送ってもらった。
電話で話す度に何度も話してきたこと。
今度こそ次会う時は、南米かアフリカかどこかの、まだ名前も知らないような小さな街の、汚いゲストハウスで次は会おうと話して別れた。
二人には今後も何度も会うと思う。
ホントにそれが近いうちにそういう街だったらいいなと思う。
この日の夜は地元最大の友達とラーメン屋で呑んだ。
彼の彼女はZoomではお会いしたが初めてお会い出来た。
昼間とはまったく違い、4年ぶりなのにまったく内容の無い会話をした。
翌日は行きたくて行きたくて長年夢見ていたラーメン屋さんに行った。
家系ラーメンは日本でしか食べられない。
最高でした。
幼なじみに会って。
子供が生れたことは昔から聞いていたが、やっと会うことが出来た。
もうこんなに大きくなっていることに本当に驚いたし、それが4年の長さを改めて知れた。
年末年始は普段は忙しい中学の同級生達に会った。
元気でいることはSNSでなんとなく見れるけど、普段仕事や家ではどんな風なのかは知れない。
どの人に会っても話すことは尽きなかった。
俺がもし地元にいて年に1回年末年始に会うだけならこんな話しをすることは無かったのかも知れない。
話しは尽きないかもしれないけど、馬鹿話しなのかもしれない。
でも久しぶりだったから、話すことは誰と会ってもたくさんあった。
この人達なんて会えて超嬉しかった。
昼飯は毎日ラーメン屋さんに行った。
毎日行っても、3週間で食べたかったお店に全て行くことは出来ない。
他の日本食も食べたかったけど、他はなんとなくなら海外でも食べられる。
ラーメンだけは日本でちゃんと美味しいやつが食べたい。
とにかく毎日ラーメン屋に行った。
諸先輩方にもお会いしに行った。
先輩方は久しぶりと言ってくれて、色々な話しを聞いてくれた。
隔離があけてからの4日間。
毎晩呑みに行った。
しこたま呑んだ。
毎朝死ぬほど二日酔いだった。
海外では高くてたくさんは呑めない焼酎を、山ほど呑んだ。
確実に内臓に負担がかかっているぐらい呑んだ。
大晦日は流石に誰もかまってはくれなかった。
当然。
実家でおせちを食べながら紅白を見た。
それも本当に久しぶりだった。
日本にいても大晦日に実家にいることなんてなかったから。
大晦日は去年、一昨年はシドニーでニューイヤー花火を見た。
3年前はインドのバラナシにいた。
4年前はタイのプーケット。
来年は分からない。
来年の目標は久しぶりに死なない。
久しぶりにしばらくはバタバタした日々になる。
今年は何が起きて、どういう1年になるのかまったく想像が出来ない。
この夜は深夜3時過ぎまで祖母と二人で長い話しをした。
やっぱり俺はこの人の血を多くいただいてる。
というか83歳で深夜3時まで話しの尽きないおばあさまは流石だなと思いました。
一時帰国することにしたほとんどの理由はおばあさま。
本当に帰ってきて良かったなと思った。
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