メルボルンから帰ってきた後、3月の1ヶ月間の事。
家もお店から歩いて15分の場所に引っ越して、昼の休憩時間で1度帰れるようになった。
1時間ちょっと毎日昼寝が出来るし、朝も今までよりも家を出る時間がだいぶゆっくりになったので、生活はだいぶ楽になった。
週7で昼夜働いた。
蕎麦屋でフルタイム、蕎麦屋が休みな月曜日の昼夜と木曜日曜の昼はラーメン屋で働いた。
勤務時間も延びて、時給も上がり、ファームの頃の収入を上回った。
ガソリン代も食費もかからないから、貯金は順調だった。
半日でいいから休みが欲しいと毎日思いながら、それでも働いた。
蕎麦屋はキッチンで、ラーメン屋はホールだから、ラーメン屋が良い気分転換になっていた。
蕎麦屋では鉄板で働いていた。
お好み焼きか鉄板焼きのメニューを毎日作っていた。
それが蕎麦側のキッチンに移動になることになり、研修が始まった。
次のポジションは揚げ場だった。
長年働いていた揚げ場の人が辞めるのが理由だった。
天ぷらがメインで、それ以外に唐揚げ、コロッケ、トンカツ、揚げ蕎麦、揚げ出し豆腐、焼き魚とかを作ることになった。
鉄板側と蕎麦側はキッチンが別れていて、今まで4ヶ月間働いてきたが、実際蕎麦屋側のメニューとか、やっていることとかあまり知らなかった。
調理と、仕込みと、その他もろもろを毎日教わった。
平日は揚げ場を教わり、週末は鉄板に戻るなんて日々を過ごしていた。
休みも無いし、仕事して、帰って酒呑んで寝る。
ただ毎日が過ぎて、このままこの生活が今年は続くんだと思っていた。
何も考えないで、とにかく来年まで無感情で貯金し続けようと、思っていた。
3月中旬。
中国の武漢から広まったウイルスが、日本に入り始めて、横浜のクルーズ船で感染拡大したり、日本国内でも感染者が出たなんてニュースが毎日流れていた頃、オーストラリアも同様に感染者が出始めた。
中国で新型ウイルス発生、なんてニュースが流れ始めてから2ヶ月ぐらいであっという間に世界に広がった。
当初は俺も何も考えずにニュースを見ていた。
その後はシドニーではチャイナタウンが風評被害にあっているぐらいだった。
しかし、オーストラリアでも感染者が増え始めたこの頃から、お店に来るお客さんは激減した。
日本食は関係無いが、アジア系のお店はどこも同様だったと思う。
お客さんの数は普段の2割以下になった。
3月15日以降は、お客さんもオーダーも少なくなり、仕事に行っても調理すること無く、掃除だけして帰る、なんて日が続いた。
スタッフも全員どうしていいか、この先どうなるか分からない日々だった。
家に住んでいる他のルームメイトも同様で、ニュートラルベイの他の日本食レストランでみんな働いていた。
話しを聞いても、みんな同様の状況だった。
オーストラリアは移民の国だし、アジア系の人口はめちゃくちゃ多い。
中国、日本、韓国だけでなく、インド系、マレー系、アフリカ系、世界中の人種が住んでいる。
街中で日本人を見ることなんて、毎日めちゃくちゃあるし、それは今まで行った国の中でも1番断トツで多い。
だから、幸い、差別的なことをされたり感じたりすることは一切無かった。
普段から全員がアジア系の人に接しているから。
英語が上手くない人に対しても優しいし。
この状況になってもマスクをしている人はほとんどいなかった。
街中を歩いても1人か2人見る程度。
ただ、スーパーで買い占めが起こっていた。
これは日本だけでなくオーストラリアも一緒だった。
トイレットペーパー、ティッシュ、袋麺、パスタ、米なんかが店頭から無くなった。
1人1個までの購入制限も出来た。
この週から、感染者は大幅に増えた。
1日当たりの新規感染者が400人を超えた。
ロックダウン、緊急事態宣言が近くあるのではないかと言われていた。
ここからのオーストラリア政府の対応は、本当に速かった。
噂され始めた3日後、ロックダウンが宣言された。
試行は3月24日の月曜日からだった。
客足が減り始めてから10日ぐらいの出来事だった。
内容は不要不急の外出禁止。
買い物、通勤、運動以外の外出禁止。
複数人での接触禁止。
車も2人まで。
結婚式は5人、葬儀は10人まで。
学校は休校。
そして飲食店はテイクアウトのみの営業が許可された。
宣言が出されてから施工まで3日も無かった。
蕎麦屋もラーメン屋もどうしたらいいのか分からない、という状況だった。
ラーメン屋はテイクアウトやウーバーに対応していたが、蕎麦屋はやっていないし。
ロックダウン初日、ラーメン屋に出勤したが、お客さんはほとんど来なかった。
テイクアウトのみだし、売り上げは半分以下だった。
というか、街からほとんどの人が消えた。
通行人もいないし、車もまばら。
こんなニュートラルベイは初めて見た。
ラーメン屋からは、しばらく申し訳ないが自宅待機と言われた。
次の日の夜、久しぶりにグレイズビルに呑みに行った。
こんな状況だし、家の下のアンディの中華屋で麻婆豆腐と水餃子をテイクアウトした。
アンディも困った様子だった。
アンディは、こんな状況で客として初めて行った俺らに対し、めちゃくちゃ大盛りにしてくれて、しかもサービスでイカの唐揚げもくれた。
久しぶりに食べた本場の中華料理はめちゃくちゃ美味しかった。
グレイズビルに行ったのは、元のルームメイトの一人がシドニーを離れるから会いに行った。
ロックダウンの数日後、全ての州のボーダーが閉鎖されることになった。
オーストラリアは州制度なので、国の政策以外に、州独自の権限も強い。
彼女はセカンドビザ取得のため、クイーンズランドに行く予定だった。
ただ州閉鎖が発表されて、急遽ギリギリのタイミングで向かうことになった。
準備期間は3日も無かった。
ファーム情報を数日前から電話でやり取りし、最後会いに行った。
翌日、車で空港に送った。
州閉鎖の前日だった。
彼女は無事クイーンズランドに入り、14日間の自己隔離の後、ファームの仕事が始められた。
ラーメン屋は自宅待機になったが、蕎麦屋では働かせていただいた。
元もとやっていなかったが、テイクアウトのみの営業になったので始めることになった。
急遽、お弁当や丼ぶりなどの、テイクアウトメニューが出来た。
ただランチはほぼお客さんがいなかった。
ディナーも数えるほどだった。
勤務時間は大幅に減った。
昼も開店ギリギリに行って。
夜も7時半には片づけて、8時には帰宅した。
なにより、俺はキッチンだから仕事があったけど、ホールの女の人は仕事も無く、ほとんどがお店を辞めることになった。
お店のスタッフの半分以上が辞めることになった。
大所帯のお店だったが、9人まで減った。
その残ったスタッフも、仕事の半分はボランティアとして働いた。
行った仕事の半分はボランティア、半分はお金をいただいた。
ただ毎回賄いをいただけるだけでも、本当にありがたかった。
残ったお弁当やお総菜を持って帰らせてもらった。
この状況で、お金と食事があるのは、本当に助かった。
ある夜にいただいた冷やおろし蕎麦。
美味しかった。
収入は2割以下になった。
この状況で収入と食事があるだけ幸いだが、週に60ドル、5000円ほどの赤字生活になった。
ただ貯蓄もあるので、しばらくは耐えられる。
シドニーにいる、ワーキングホリデービザの日本人のほとんどが職を失った。
航空便の長期運休も発表された。
そして日本領事館から、この先半年は状況は厳しくなる、貯蓄が無い人、職が無い人は、なるべく速く帰国せよ、という勧告が出た。
これが決定的になり、ほとんどの日本人が帰国した。
蕎麦屋を辞めることになったスタッフも全員帰国した。
ルームメイト達もこの1週間でみんな帰国した。
家には俺と、長年オーストラリアで働いている人の二人だけになった。
これはどの家も一緒だった。
あれだけ街中で見た日本人があきらかにいなくなった。
蕎麦屋は最初の1週間は、ほとんどお客さんはいなかった。
1番酷い日が、テイクアウト1件、25ドルのみという日もあった。
ただ次の週からは少しずつ増えた。
オーナーの奥さんが車でデリバリーもしていた。
オーナーに、しばらくファームにでも行っていましょうか?と聞いたが、ここで働いていなさいと言っていただいた。
仕事はボランティアで行っていたのが休みになり、ポジションも鉄板に戻った。
鉄板を、俺ともう一人で交代で勤務した。
週の半分が休みになり、家で長い時間を過ごした。
夜はKAZOOHALLのYoutubeチャンネルに救われた。
流行のWeb呑みも何度かやった。
家族、秋山、菅家さん、大野、マンタ、カンタ、拓郎、エリカ、パクさん、タカ、マユちゃん等々。
これはこれで救われた。
週の仕事は半分は休みだし、仕事も8時には終わるしで、することが無かった。
あれだけ半日でいいから休みが欲しいと毎日働いたのに、休みも3日で飽きたし、寝てばかりでつまらない。
毎晩2時間ぐらい散歩をした。
ある晩、ハーバーブリッチを歩いて渡ってみる。
ある晩、ハーバーブリッチの下の公園に行ってみる。
対岸のオペラハウス。
シドニーは着実に冬に向かっていて、肌寒い日が増えていった。
橋の下。
世界で1番車線の多い橋。
下の遊園地。
人もいないし静か。
ある日、グレイズビル近くの入り江を散歩。
シドニーはあちこちに自家用の船が停泊している。
ニュートラルベイで寝るか、グレイズビルでグダグダするかの毎日。
この頃は、先が分からなすぎて、ただ毎日寝るしか無かった。
このウイルスと世界状況がどうなるかなんて、まったく分からなかった。
それでも、貯金を若干崩すだけで、仕事と食事にありつけるだけ、俺は本当に恵まれていた。
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家もお店から歩いて15分の場所に引っ越して、昼の休憩時間で1度帰れるようになった。
1時間ちょっと毎日昼寝が出来るし、朝も今までよりも家を出る時間がだいぶゆっくりになったので、生活はだいぶ楽になった。
週7で昼夜働いた。
蕎麦屋でフルタイム、蕎麦屋が休みな月曜日の昼夜と木曜日曜の昼はラーメン屋で働いた。
勤務時間も延びて、時給も上がり、ファームの頃の収入を上回った。
ガソリン代も食費もかからないから、貯金は順調だった。
半日でいいから休みが欲しいと毎日思いながら、それでも働いた。
蕎麦屋はキッチンで、ラーメン屋はホールだから、ラーメン屋が良い気分転換になっていた。
蕎麦屋では鉄板で働いていた。
お好み焼きか鉄板焼きのメニューを毎日作っていた。
それが蕎麦側のキッチンに移動になることになり、研修が始まった。
次のポジションは揚げ場だった。
長年働いていた揚げ場の人が辞めるのが理由だった。
天ぷらがメインで、それ以外に唐揚げ、コロッケ、トンカツ、揚げ蕎麦、揚げ出し豆腐、焼き魚とかを作ることになった。
鉄板側と蕎麦側はキッチンが別れていて、今まで4ヶ月間働いてきたが、実際蕎麦屋側のメニューとか、やっていることとかあまり知らなかった。
調理と、仕込みと、その他もろもろを毎日教わった。
平日は揚げ場を教わり、週末は鉄板に戻るなんて日々を過ごしていた。
休みも無いし、仕事して、帰って酒呑んで寝る。
ただ毎日が過ぎて、このままこの生活が今年は続くんだと思っていた。
何も考えないで、とにかく来年まで無感情で貯金し続けようと、思っていた。
3月中旬。
中国の武漢から広まったウイルスが、日本に入り始めて、横浜のクルーズ船で感染拡大したり、日本国内でも感染者が出たなんてニュースが毎日流れていた頃、オーストラリアも同様に感染者が出始めた。
中国で新型ウイルス発生、なんてニュースが流れ始めてから2ヶ月ぐらいであっという間に世界に広がった。
当初は俺も何も考えずにニュースを見ていた。
その後はシドニーではチャイナタウンが風評被害にあっているぐらいだった。
しかし、オーストラリアでも感染者が増え始めたこの頃から、お店に来るお客さんは激減した。
日本食は関係無いが、アジア系のお店はどこも同様だったと思う。
お客さんの数は普段の2割以下になった。
3月15日以降は、お客さんもオーダーも少なくなり、仕事に行っても調理すること無く、掃除だけして帰る、なんて日が続いた。
スタッフも全員どうしていいか、この先どうなるか分からない日々だった。
家に住んでいる他のルームメイトも同様で、ニュートラルベイの他の日本食レストランでみんな働いていた。
話しを聞いても、みんな同様の状況だった。
オーストラリアは移民の国だし、アジア系の人口はめちゃくちゃ多い。
中国、日本、韓国だけでなく、インド系、マレー系、アフリカ系、世界中の人種が住んでいる。
街中で日本人を見ることなんて、毎日めちゃくちゃあるし、それは今まで行った国の中でも1番断トツで多い。
だから、幸い、差別的なことをされたり感じたりすることは一切無かった。
普段から全員がアジア系の人に接しているから。
英語が上手くない人に対しても優しいし。
この状況になってもマスクをしている人はほとんどいなかった。
街中を歩いても1人か2人見る程度。
ただ、スーパーで買い占めが起こっていた。
これは日本だけでなくオーストラリアも一緒だった。
トイレットペーパー、ティッシュ、袋麺、パスタ、米なんかが店頭から無くなった。
1人1個までの購入制限も出来た。
この週から、感染者は大幅に増えた。
1日当たりの新規感染者が400人を超えた。
ロックダウン、緊急事態宣言が近くあるのではないかと言われていた。
ここからのオーストラリア政府の対応は、本当に速かった。
噂され始めた3日後、ロックダウンが宣言された。
試行は3月24日の月曜日からだった。
客足が減り始めてから10日ぐらいの出来事だった。
内容は不要不急の外出禁止。
買い物、通勤、運動以外の外出禁止。
複数人での接触禁止。
車も2人まで。
結婚式は5人、葬儀は10人まで。
学校は休校。
そして飲食店はテイクアウトのみの営業が許可された。
宣言が出されてから施工まで3日も無かった。
蕎麦屋もラーメン屋もどうしたらいいのか分からない、という状況だった。
ラーメン屋はテイクアウトやウーバーに対応していたが、蕎麦屋はやっていないし。
ロックダウン初日、ラーメン屋に出勤したが、お客さんはほとんど来なかった。
テイクアウトのみだし、売り上げは半分以下だった。
というか、街からほとんどの人が消えた。
通行人もいないし、車もまばら。
こんなニュートラルベイは初めて見た。
ラーメン屋からは、しばらく申し訳ないが自宅待機と言われた。
次の日の夜、久しぶりにグレイズビルに呑みに行った。
こんな状況だし、家の下のアンディの中華屋で麻婆豆腐と水餃子をテイクアウトした。
アンディも困った様子だった。
アンディは、こんな状況で客として初めて行った俺らに対し、めちゃくちゃ大盛りにしてくれて、しかもサービスでイカの唐揚げもくれた。
久しぶりに食べた本場の中華料理はめちゃくちゃ美味しかった。
グレイズビルに行ったのは、元のルームメイトの一人がシドニーを離れるから会いに行った。
ロックダウンの数日後、全ての州のボーダーが閉鎖されることになった。
オーストラリアは州制度なので、国の政策以外に、州独自の権限も強い。
彼女はセカンドビザ取得のため、クイーンズランドに行く予定だった。
ただ州閉鎖が発表されて、急遽ギリギリのタイミングで向かうことになった。
準備期間は3日も無かった。
ファーム情報を数日前から電話でやり取りし、最後会いに行った。
翌日、車で空港に送った。
州閉鎖の前日だった。
彼女は無事クイーンズランドに入り、14日間の自己隔離の後、ファームの仕事が始められた。
ラーメン屋は自宅待機になったが、蕎麦屋では働かせていただいた。
元もとやっていなかったが、テイクアウトのみの営業になったので始めることになった。
急遽、お弁当や丼ぶりなどの、テイクアウトメニューが出来た。
ただランチはほぼお客さんがいなかった。
ディナーも数えるほどだった。
勤務時間は大幅に減った。
昼も開店ギリギリに行って。
夜も7時半には片づけて、8時には帰宅した。
なにより、俺はキッチンだから仕事があったけど、ホールの女の人は仕事も無く、ほとんどがお店を辞めることになった。
お店のスタッフの半分以上が辞めることになった。
大所帯のお店だったが、9人まで減った。
その残ったスタッフも、仕事の半分はボランティアとして働いた。
行った仕事の半分はボランティア、半分はお金をいただいた。
ただ毎回賄いをいただけるだけでも、本当にありがたかった。
残ったお弁当やお総菜を持って帰らせてもらった。
この状況で、お金と食事があるのは、本当に助かった。
ある夜にいただいた冷やおろし蕎麦。
美味しかった。
収入は2割以下になった。
この状況で収入と食事があるだけ幸いだが、週に60ドル、5000円ほどの赤字生活になった。
ただ貯蓄もあるので、しばらくは耐えられる。
シドニーにいる、ワーキングホリデービザの日本人のほとんどが職を失った。
航空便の長期運休も発表された。
そして日本領事館から、この先半年は状況は厳しくなる、貯蓄が無い人、職が無い人は、なるべく速く帰国せよ、という勧告が出た。
これが決定的になり、ほとんどの日本人が帰国した。
蕎麦屋を辞めることになったスタッフも全員帰国した。
ルームメイト達もこの1週間でみんな帰国した。
家には俺と、長年オーストラリアで働いている人の二人だけになった。
これはどの家も一緒だった。
あれだけ街中で見た日本人があきらかにいなくなった。
蕎麦屋は最初の1週間は、ほとんどお客さんはいなかった。
1番酷い日が、テイクアウト1件、25ドルのみという日もあった。
ただ次の週からは少しずつ増えた。
オーナーの奥さんが車でデリバリーもしていた。
オーナーに、しばらくファームにでも行っていましょうか?と聞いたが、ここで働いていなさいと言っていただいた。
仕事はボランティアで行っていたのが休みになり、ポジションも鉄板に戻った。
鉄板を、俺ともう一人で交代で勤務した。
週の半分が休みになり、家で長い時間を過ごした。
夜はKAZOOHALLのYoutubeチャンネルに救われた。
流行のWeb呑みも何度かやった。
家族、秋山、菅家さん、大野、マンタ、カンタ、拓郎、エリカ、パクさん、タカ、マユちゃん等々。
これはこれで救われた。
世界中のバックパッカー達も日本に帰国していた。
途中で知り合った人達のSNSを見ていても、みんな厳しい状況で、その後ほとんどが帰国した。
これはとても辛かった。
俺は幸いオーストラリアにいるからなんとかなっているけど、どこかの国を旅行中にこれになったら、本当に厳しかったし、帰国するしか無かった。
みんな宿から出られない、買い物も行けないみたいな状況から、高い航空券で帰国していた。
みんな夢の途中の帰国だった。
オーストラリアで知り合った人達もそうだった。
ほとんどが帰国した。
メルボルンのサキコちゃん達も帰国した。
ニュージーランドのタッ君とミホさんも困っていて、何度か連絡を取った。
本当にすることが無かった。
毎週日曜の夜から、月曜火曜はグレイズビルで呑んでいた。
ある日怪我をした鳩を保護して病院に届けた。
週の仕事は半分は休みだし、仕事も8時には終わるしで、することが無かった。
あれだけ半日でいいから休みが欲しいと毎日働いたのに、休みも3日で飽きたし、寝てばかりでつまらない。
毎晩2時間ぐらい散歩をした。
ある晩、ハーバーブリッチを歩いて渡ってみる。
ある晩、ハーバーブリッチの下の公園に行ってみる。
対岸のオペラハウス。
シドニーは着実に冬に向かっていて、肌寒い日が増えていった。
橋の下。
世界で1番車線の多い橋。
下の遊園地。
人もいないし静か。
ある日、グレイズビル近くの入り江を散歩。
シドニーはあちこちに自家用の船が停泊している。
ニュートラルベイで寝るか、グレイズビルでグダグダするかの毎日。
ある日の鍋パ。
この頃は、先が分からなすぎて、ただ毎日寝るしか無かった。
このウイルスと世界状況がどうなるかなんて、まったく分からなかった。
それでも、貯金を若干崩すだけで、仕事と食事にありつけるだけ、俺は本当に恵まれていた。
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